愛知高等学校

愛高祭パンフレット

 

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意外だった永平寺

いきなりだが、永平寺に行った感想は「驚いた」だけだ。なぜなら理由は五つある。一つめは、新しいということだ。僕は「世俗と離れる=ラジオはあってもテレビやDVDなどは当然無い」という考えだった。しかし、映画がDVDだったり、映すスクリーンが自動だったり、ある部屋にはタウ(テレビ)があったり、自分の家よりも進んでいるようだった。他にも平成で建て直した建物などもあった。二つめは、雲水さんがとてもやさしかった。先生方から聞いた僕の雲水さん象は、「〜しろ」と命令的だと思っていたのに「〜してください」と敬語を便ってくれたのだ。東司や浴室でしゃべっても何も言われなかったし、寝る時あれだけうるさかったのに、雲水キックはでなかった。三つめは、食事がいたって普通だった。野菜が苦手だから食べる物がご飯しかないと困っていたのに夕食はご飯・みそ汁・漬けもの・がんもどき・ごま豆腐・じゃぱらこんぶ、デザートにはバナナといった豪華とは言えないがけっして質素ではない食事だった。祖母の家に行くとこんな感じなので、じゃばらこんぶを除いて全部食べた。朝食もかわらず質素ではない食事が出された。これには何か期待を裏切られた感じがした。四つめは、警策があまり痛くないことだった。肩をたたかれる前に歯をくいしばり、声を出さないようにしたのに、妹にひっかかれた方がよっぼど痛かった。たぶん雲水さんが、初めてだからという理由で弱くしてくれたのだろう。ここにも雲水さんのやさしさがにじみでている。五つめは、食事の手伝いの途中、ごみ箱の中にお菓子の袋が入っていたことだ。これに対しては、ただ笑うしかなかった。永平寺に行って今この感想文を書いていて、思ったことが一つある。それはやさしすぎるのもいかん、ということだ。ちゃんと間違ったことをしているのならきぴしくしないといけないと思った。これも勉強になった。

永平寺に行って

予定表を見た時、起床が三時十分と書いてあり、まずその段階で驚きました。起きれるのだろうか?案の定、この修行で一番辛かったのは、この午前三時十分に起きることでした。坐禅は思った程足も痛くならず、ゆったりとした隠やかな気持ちになれて自分としては非常に良い時間が持てたと思いました。警策は痛いのかとビクビクしていましたが全く予想外でした。この永平寺には初めて行きましたが想像していたよりずっと綺麗でした。厳かな雰囲気の中に堂々と寺があり、一年位こんな所で修行してみたい気持ちになりました。食事で玄米は始めて食べましたがおいしかったです。しかし、おかずは物足りなく、角煮らしきものが非常においしく感じられました。家に帰って母の作った食事を食べた時、毎日当たり前のように食べていましたがとってもおいしく感じました。たった一日の経験でしたがこんな厳しい修行を何年かにわたってやっている雲水さんたちはすごいと思いました。すべての欲をおさえ、気持ちを無にして修行をしている毎日、お経と坐禅と粗末な食事の中で生活をくり返していて、何が見えてくるのだろうか? どんな考え方ができるようになるのだろうか? また、大人になって改めて坐禅をやりに行きたいと思いました。そして、その時、自分がどんな考え方、生き方が少しでも変わるのかを体験してみたいと思いました。

老師の法話

四組伊藤寿浩

今回の一泊二日の永平寺参禅は、ぼくにとって、とても大きなものになった。ぽくは「集中力の持続」が苦手で、まさにそれを養うために坐禅をした。でも、やっぱり、足のしびれ、疲れなどを理由に集中することができなかった。どんな小さな障害があっても集中を持続させることを身につけたいと思った。

この参禅で一番心の中にひびいたのは山田老師の法話だった。山田老師はあるボクサーが参禅に来たときの話をしてくれた。ぼくは山田老師は凄い人だなあと思って、山田老師を尊敬した。

今回の参禅の体験で「生き方」などを教わり、苦しい修行に耐え、それを毎日し続ける雲水さんを見て、凄いなあと尊敬しました。山田老師は僕のやっているスポーツの視点で多くのことを語ってくれてとてもわかりやすかった。山田老師のおっしゃってたことをいつも心にとめ、これからの生活に生かしていきたいと思いました。

一泊二日の永平寺での生活は、僕にとってとても大きなものとなった。

坐禅の時には一生懸命、神経を集中させようとするが足のしびれなどで、集中することができなかった。

座ること

初めて、坐禅というものを体験した。だが行って初めの坐禅では何を考えればよいのかや、何故このようなことをするのかなど、余計な事を考えていた。そのような気持ちになると心が不安定になってしまいなかなか集中できない。結局、一回目では自分の納得できる坐禅にならなかった。よくよく考えてみると、何故、道元禅師は座ることを修行だと思ったのだろう。その疑問にぶつかったとき坐禅をする時の形に注目した。坐禅で行う動作は、どのような意味かが隠れているのか…。その夜雲水さんが仏の動作について話してくれた。「坐禅は仏の動きであり、形と心が一つになったとき仏になる。」と。僕の中ではその話が一番心に残っている。その話を聞くまでは、形だけが大切で心より手と足に神経を集中させていた。しかし、本来は心と体の一体化が必要だったのだ。そう考えると食事の間も正座で食べる意味が分かってきた。それをふまえて坐禅をしたら、自分のために座るという、まさに修行の実感が湧いてきた。参禅が終わり、家に帰ってから「坐禅」を辞書で調べてみるとそこには「座して、何も考えないで、さとりを得ようとする修行」と記されていた。静座は「心をおちつけて静かに座ること」となっており、決して座り方の規定はなかった。これは、仏の動きをなくしてでも、仏に通じるさとりを得られるということなのだろうと思った。


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